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大阪地方裁判所堺支部 昭和45年(わ)136号 判決

主文

被告人を懲役三年に処する。

ただしこの裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は旧制の高等女学校を卒業後会計事務所の事務員をしていたとき、同じ事務所に勤めていた椋橋延治(昭和六年五月一一日生)と恋愛結婚し、二女をもうけ、結婚後は自宅で夫と共に会計事務所からの委託事務の処理に従事していたものであるが、長女が生れた頃から夫の延治が酒を飲んでは暴れるようになり、家財道具を毀したり、被告人や延治の実母の貞にまで殴る蹴るの暴力をふるい、そのため被告人の身体は常に生傷が絶えず、鼻骨を折られたり、右耳の鼓膜を破られたり、頭の毛を切られたりしたこともあり警察にも何回となく相談に行き、又精神病院に収容して貰うことを考えたこともあるが、延治の仕事の信用問題や、下手に処置をして後でひどい目にあうことを心配して結局十数年間被告人はその乱暴に堪えて辛抱してきたが、昭和四四年の一〇月ごろから、延治は従前の日本酒をやめて洋酒を飲むようになり、その酒乱の度は益々ひどいものになつていたところ、昭和四五年五月一九日の朝も、前夜酒に酔つて遅く帰つた延治が岸和田市岸野町七番六号の自宅階下奥六畳の間で眼を覚まし、被告人に「雨戸を開け」と言つたのに、被告人が炊事場で用事をしていて聞えなかつたことから、延治は「返事もしないし雨戸を開もせん」と言つて怒り出し、酔いがまだ十分さめていないところから、大声を出し、物を投げて暴れ出したので、被告人と二人の子供は外へ逃げ出し、子供達はそのまま朝食もとらずに学校へ行き、その後延治は硝子を破るなどひと暴れしてまた眠つてしまつたので、被告人は延治が酒を飲んだ後に食べるおかゆを炊き、破れたガラスの後始末をするなどしているうちに延治が起きて「おかゆができていない、おそい」と言つて怒り出し、被告人にブランデーを持つてこさして飲み出したので、同日午後一時過ぎごろ、被告人は延治に対し「朝から飲むのはやめて下さい、期限の迫つた仕事もあるし」と頼んだところ、延治は「仕事は今日せんでもええ」と言つて怒り出し、被告人の頭を二、三回殴打したので、被告人は延治の身体にかぶさるようにして両手で延治の両手を掴んで殴られないように押えつけていたが、一五分位してはね返され、頭髪を掴まれて顔を畳にこすりつけられ、それを脱れようと被告人が抵抗するうち、延治は「わかるようにしてやる」と言いながら前記六畳の間から炊事場へ通じる入口の柱と硝子戸に両手でつかまりながらふらつく足で炊事場の方へ出ていこうとしたので、被告人は延治が刃物を取りに行くのではないかと思うと共に、今まで長い間辛抱を重ねてきたが、これからもいつまで続くかわからない延治からの迫害による苦しみから免れるため、いつそのこと延治を殺そうと考え、丁度立つている延治の右横後方にあるテレビの上にあつた延治のネクタイ一本(昭和四五年押第五一号の一)を右手に掴むなり両手でその両端を持ち、延治の背後から頭越しにその首にひつかけ、力一ぱい後方に引つ張ると、延治が右の方へ一回転するようにして前記六畳の間の中の方へうつ伏せに倒れたので、その首の後でネクタイを交差してその両端を掴んで力ぱい締めつけ、まもなく同人をしてその場で窒息死するに至らしめ、もつて殺害したものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は被告人の本件殺害行為は正当防衛ないしは過剰防衛または誤想防衛行為であるとするので、以下順次右主張について判断するに、先づ正当防衛の主張については、前示各証拠によれば、本件犯行の直前被害者の延治は、前判示のとおり酒乱状態になつて被告人の頭を二、三回殴りつけ、更に被告人の頭髪を掴んで顔を畳にこすりつけるなどの暴行を加え、ついで「わかるようにしてやる」と言つて炊事場の方へ向つて歩き出したことが認められ、弁護人は延沿が炊事場の方へ向かつたことにより侵害行為が終つたと認めることは同人の過去の酒乱癖からみて到底考えられないところであると主張する。確かに右延治の過去における行状や右炊事場へ向つた際の言動を考え併せると、延治が炊事場へ向つたとき、延治が被告人に対して乱暴を加える気持を放棄したものでないことを認めるにやぶさかではないが、ふらつく足で被告人に背を向けて歩き出したことによつて、延治の被告人に対する直接的な侵害状態はなくなるとともに、被告人の当公判廷における供述で明らかなように、被告人としては逃げ出そうと思えば、被告人がいた部屋のベランダの方のガラス戸には鍵がかかつていなかつたので、そこから外へ逃げ出すことができたのに、そのときは昼間で人通りがあつたから逃げ出したくなかつたというのであるから、その段階で延治から被告人に加えられた急迫不正の侵害状態は一たん解消したものと考えるので相当である。さらにまた被告人が延治を殺害しようとした際の被告人の心情は前判示のとおりただ苦しみから逃れたいためというにあり、延治から長年にわたつて加えられ、今も、またこれからも加えられる迫害から免れるためにいつそのこと延治を殺害しようとしたものであるから、被告人に直ちに防衛意思ありと認めるのは困難である。従つて右主張は理由がなく、また過剰防衛を論ずる余地もない。次に誤想防衛の主張については、延治が「わかるようにしてやる」と言つて炊事場の方へ向うのを見て被告人で刃物をとりに行くのではないかと考えたのは前判示のとおりであるが、弁護人はこのような立場に立つた被告人は殺されるかもしれないと考えるのはもつともであると主張する。しかし前示被告人の各供述調書を綜合すれば、被告人は今までにも何回も延治から刃物を突きつけられたが、鋏で髪の毛を切られたことは別として、刃物で切られたことは一度もないのであり、被告人としては延治が炊事場へ向うのを見て刃物を持ち出すと危いなと思つた程度であつて、いまだ被告人が殺されるような急迫不正の侵害がないのに、被告人の方で殺されるかもしれないと錯覚して本件犯行に出たものでないことは明らかであるから、弁護人の右主張も理由がない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法一九九条に該当するので所定刑中有期懲役刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人を処断すべきところ、本件は確定的な殺意をもつて人の生命を奪つたもので、その責任は極めて重大であるが、他面被告人には前科前歴がなく、酒乱の夫である被害者から十数年の長きにわたつて、常に生傷の絶えまがないほどの暴行を受け、殊に鼻の骨を折られたり、右耳の鼓膜を破られたり、髪の毛を切られるという傷害を受けるなど、はかり知れないほどの肉体的、精神的迫害を受け、警察に頼みに行つても、家庭内のこととて深く介入してくれず、精神病院へ入れることも後の仕返しや仕事の信用のことなどを考えるとむづかしく、また離婚も子供のことや、そうしても被害者からの迫害がないという保障にはならないことを考えて決断し得ないまま被告人は被害者の乱暴に対し、ただひたすらこれに堪えて辛抱してきたものであるが、本件犯行の直前にも前判示のごとき暴行を受け、なおその上に「わかるようにしてやる」と言つて、被害者が炊事場の方へ向うのを見て、また刃物を取りに行くのではないかと思うとともに堪えに堪えた辛抱の限界に達し、ついに本件犯行に及んだもので、附近住民の多数の嘆願書にもうかがわれるように、その動機および犯行に至る状況において多大の同情に値する事情が認められ、被害者の肉親側まで被告人に同情こそすれこれを責めておらず、被告人は亡き夫の冥福を祈り、十分反省しており、又本件犯行が偶発的な犯行であつて、自首しているなど被告人に有利な事情が認められるので、以上諸般の情状を考慮して被告人を懲役三年に処し、同法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予することとする。

よつて主文のとおり判決する。(栄枝清一郎 弘重一明 浦上文男)

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